東日本大震災 東北学院1年の記録

発刊によせて

理事長
学校法人東北学院理事長
平河内 健治

 平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災は「広域複合災害」としての特徴をもち、しばしば未曾有の、そして、想定外の災害と言及されます。地震被害、津波被害、放射線物質汚染、電力供給障害、風評被害と複合的であると同時に、行政、教育、医療等公共機関も被災し、被害区域も広範に渡ります。まだまだ続く余震にも何回か怯え、東電や政府の原発事故処理発表にも確固たる信頼が置けず、避難生活も継続し、充分には安心しきれない不安の日々を未だに送っておられる方も多いかと想います。

 震災後ほぼ1年を経た平成24(2012)年2月27日現在の警察庁のまとめによると、被災による死亡者は全国で15,853人、行方不明者は3,282人となっています。大半は宮城、岩手、福島の3県での犠牲者で、宮城県の数は死者・行方不明者あわせて11,266名で、全国の60%近くの犠牲者が宮城県に集中しております。遺族の悔しさと悲しみは癒えることがありません。東北学院も高校生2人と大学生5人、入学予定者が4名の計11名が犠牲となりました。教職員の家族の中にも犠牲者がおられます。心から哀悼の意を表します。また、2月8日現在で、東北学院の震災復旧工事費には約13億1千万円の支出が予定され、学生・生徒・園児への修学支援は、授業料減免・緊急給付奨学金や見舞い金・入学検定料免除・仙台石巻間通学バス運行等約8億5千万円の支出となります。学生支援は当初の予測より5億円も超過しています。

 理事会は、各設置学校と各キャンパスとの密接な連絡を基に、災害対策委員会による学生・生徒・児童の安否確認と建物の安全確認と学事暦の変更などの迅速な対応を経て、常務理事会メンバーを中心とした震災復興対策委員会を立ち上げ、復旧復興の基本方針を定め、(全国)理事会の委任も受け、施設設備の復旧に関する事項と修学に関する経済的支援、そして、被災教職員に対する経済的事項の三点を主要課題として具体的施策策定に即対応できるようにいたしました。第一次補正予算と第二次補正予算作成には、教職員の皆様からは多大な経費削減の協力をいただき、復旧復興の見込みを立てることができました。有難うございました。

 あの日、私自身は大学土樋キャンパス1号館の6階理事長室で執務中でした。余りの揺れにドアを開けホールに飛び出しましたが、一歩も歩けず入り口の壁にへばり付き、揺れが収まるのを待つしかありませんでした。揺れが止んだ時、一瞬逡巡しましたが、直ぐ部屋に戻り、外套と手袋だけを持ち出しました。机上や棚の書類は散乱し、両開きのガラス扉付きの本棚からは書類ファイルや本が全部飛び出し落下しており、室内で一番重いプリンターが傾いているのが目に付きました。6階には他に誰も居ず、急いで一人階段を降り、法人事務室のある5階の防火ドアを開けようとしましたが、開けられず、さらに下へ下へと降りました。3階が地上に続きますが、通路は余りに狭く感じられ、閉じ込められた(と感じられた)建物が今にでも崩落するのではと不安が過ぎりました。この時は一人取り残された感じでおりました。3階の入り口に出ても、校庭側に出るか本館前に出るか迷いましたが、本館前に出てみました。大学の全学教授会の真っ最中に地震があったとのことで、人々が続々と集まってきました。私の逃げ足は速かったようです。後で事務室の方々が私を探しに6階まで来て下さったそうですが、危険な中、大変な心配をかけてしまいました。

  余震がまだまだ続く中、本館や礼拝堂、旧シュネーダー図書館の建物を離れた方がよいとの判断で、東北大テニスコートに移動し、揺れが収まるのを待ち、その間土樋キャンパス建物の安全確認を施設部の皆さん等にしていただき、体育館を避難場所にし、私は課外活動用のバスの中で一晩過ごさせていただきました。各キャンパス・各学校状況は何とか連絡が入りました。早速守衛室脇に災害対策本部のテントを張り、後に本館に本部は移動しました。体育館は帰宅できなかった教職員や学生、近隣の住民の避難場所となりました。雪が降る寒い日となったので、学生部の方々が学生会の学生と一緒にクラブ室にある石油ストーブをかき集め、暖をとる準備をし、施設部の人を中心に備蓄品の水と毛布や乾パン等を倉庫より運び出し、被災者に配りました。生協からも食糧飲料の提供を受けました。300人を越す帰宅できなかった生徒を抱えた中高には備蓄がなかったとのことで、大学から分けたとのことでした。近隣まで津波が来襲し、礼拝堂を急遽市民の避難場所とした多賀城キャンパスは隣接の幼稚園の子ども達の避難場所ともなり、テントを張り、幼稚園バスを移動し、親に手渡せなかった子どもなどの宿として利用されました。法人内・学内での助け合いが生まれました。寝ずの番をしてくださった教職員には頭が下がります。

  翌12日は自宅待機をして連絡を受けることにし、幸いタクシーが校門前に止まり、泉の自宅マンションに帰りましたが、電気・ガス・水道のライフラインが全く断たれた中で、緊急用携帯電話すら役に立たず、電話連絡は全く駄目で、園長職を兼ねている幼稚園の教頭や事務長とは連絡が取れませんでした。いたたまらなく、13日(日)に何とか多賀城キャンパスに向かい、多賀城キャンパスと幼稚園に連絡が付き、詳しい避難時の様子を知ることができました。その日夜から電気が通りました。幸い、震災前に予約してあったタクシーが14日(月)から利用できるようになり、早速、先ず、自宅近くの榴ケ岡高等学校を訪れ、生徒安否や入試合格者の一次二次登録準備に忙殺される教職員に「よろしく」の声をかけ、大学泉キャンパス1号館ロビーに移動。すでに避難者が指定避難所に移動した痕跡を残すのみで、職員が職務を前に校門前のバス停に集まっていました。そこでも声をかけ、今度は大学多賀城キャンパスと幼稚園に移動し、その後、小鶴の中学・高等学校を訪れました。教職員の震災対応の錯綜する動きの中を校長に案内され、教職員に声がけし、帰宅の交通手段を断たれ図書室に未だ寝泊りせざるを得ない生徒と寮の生徒に激励の声がけをすることができました。土樋に来るとテレビ会議ができるようになっていました。この日の内にホームページ・インターネット・電話回線が復旧したのは幸いでした。

  教職員の献身的な働きに正式に理事会として感謝し、建学の精神のさらなる発揮をお願いできたのは、4月になってからでした。私は「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実なかたです。あなたがたに耐えれないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」という聖書の言葉から力を得て挨拶をさせていただきました。改めて教職員の復旧復興への献身に御礼を申し上げます。

  東北学院の震災からの復旧復興はある程度の目途が立ちました。一度は震災を理由に交渉を白紙撤回された東北大学片平校地南地区の土地の取得も一部だけでも取得が可能になりました。大学キャンパス整備計画が動き出しました。希望があります。学内教職員だけでなく多くの方々の祈りとご援助の賜物であります。国内外の沢山の方々の慰問や義援金をいただきました。被災者が被災者を助けるという異常な事態の中での絆に、新しい絆が増し、豊かな愛と思いやりの繋がりが生まれました。

  本記録発刊は、今後の東北学院全体の防災や減災の参考となる資料や教訓を提供することに意味がありますが、それ以上に、神様から与えられた尊い命を大切にし、愛をもって隣人に仕える建学の精神を発揮できた教職員の姿を彷彿させ、東北学院の今後の地域貢献のよすがとすることが期待されております。活字のままの文字や静止画として、即物的に無機物として接するのではなく、人と人との関わりを感じ、「見れども見ず」や「聞けども聞かず」の誘惑に陥らないよう本記録を利用してくださるようお願いし、また、製作編集の責任にあたられた東北学院広報部の皆様の労に感謝し、『東日本大震災 東北学院 1年の記録』発刊のごあいさつとさせていただきます。

平成24(2012)年3月11日