東北学院大学

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卒業式の答辞(その2)

2018年04月05日

 4月2日付けで「お知らせ」に卒業式の模様が掲載されましたが、今回の記事は、その続編です。
 今年の卒業式で卒業生総代として答辞を読んだのは、法学部の佐藤春希さんでした。
 佐藤さんの答辞の内容は、卒業式に参列した教員の間で大変好評でしたので、卒業証書・学位記授与のときの写真とともに、ここに掲載します。

答 辞

 本日は、このような盛大な式典を、私たち卒業生のために準備し、挙行してくださり、誠にありがとうございます。また、ご来賓をはじめ関係者の方々に、ご臨席を賜り、深く感謝いたします。そして、この四年間、私たちを見守り育んでくださったすべての方に、改めまして心より御礼を申し上げます。
 四年の月日は、あっという間でしたが、私たちは、それぞれの学部学科で、確実に多くのことを学び、様々な経験をして参りました。

 私が在籍する法律学科では、各々の学生の抱く様々な進路希望に対応できるように、いくつかのコースが用意されていました。そして、そのような学修の課程を、できる学生、できない学生と分け隔てることなく、しっかりと支えてくださった先生方には感謝のしようもありません。厳しい先生も、やさしい先生もおられました。しかし、どの先生も、これから社会に出ていく私たちに法学の基本を何とかわからせようと、レジュメや教え方に精魂を込めて工夫をこらしておられることが、毎日の授業からひしひしと伝わってきました。
 そして、ある先生からは、法律学の教科書は、日本語ではなく外国語で書かれてあるものだと思って、用語や条文を丹念に確認しながら読み進めるように、そして、難しいことにとらわれず、とにかく基礎固めを確実にしなさい、と言われました。その教えにしたがい、来る日も来る日もスポーツ選手が地味な基礎トレーニングをし続けるように、折に触れては法学の基礎をコツコツ、コツコツと積み上げていました。それは、無味乾燥にも感じられましたが、でも、投げ出さずに続けていると、ちょうど山登りで急に視界が開け、雄大な山々が目の前に広がるような感覚になるときがあります。法律の体系が見えてくるのです。その手応えが、学びの喜びに繋がりました。法学政治学の専門的知識と、それを支える認識や思考の方法は、基礎がしっかりしていてこそ理解でき、説明できるのだと、身に染みて感じた四年間でありました。
 次に、就職活動についてです。学業に対し、自分としては出来る限りの努力を惜しまず、真面目に勉学に励んできたつもりではありましたが、一時期、自分で思うようには就職活動が進まず、思い悩んだときもありました。当初、私は勉強を頑張っていれば、就活もきっと上手くいくだろうと、楽観視していたのでしょう。実際に、就活を始めてみると、面接に進んでも問いかけに窮することが多くありました。
 そうした中、試験前にしか頑張っていなかったように見える友人が、次々と内々定を得ていくのです。複雑な思いになりました。でも、そうした友人の話を聞くと、実は家庭の事情で、学費はもとより家賃までアルバイトで自ら工面していたと知らされました。そのような日常生活の中、毎日の授業についていくのが精いっぱいで、それでも、早く独り立ちしたいと、歯を食いしばって頑張っていたそうです。私自身にはなかった、強い想いを、その友人は持っていました。理由はそこにあったと気付かされました。そのような労苦の中で培われた真摯な姿勢と、人となりの全てを、企業はみていたのかもしれません。それ以来、私は、いったい何のために自分は社会に出るのかと、原点に立ち返って自己分析を掘り下げながら、就活に臨むようになりました。
 このことは、私の就職に向けての大きな一歩となりました。将来について語り合った友人達、指導に力を尽くしてくださった職員の皆様や先生方、一番近くで支えてくれた家族には、感謝の気持ちを言葉では言い尽くせません。

 また、大学で初めてキリスト教を学ぶ機会があったことも非常に思い出深い出来事の一つです。宗教を学ぶということは、常識や、社会通念から離れたことに接するときです。日々の礼拝において、少しの間日常から離れ、自分自身へ、そして聖書や讃美歌へと思いを向ける時間は、非常に有意義なひとときでした。そして、キリスト教学の授業では、主イエス・キリストの十字架の死や復活の教えとともに、次
のことが印象に残っています。
 それは、私たちが他人を見るというとき、それは、その人のごく限られた側面を見ているにすぎないが、神はその人の全てをお見通しである、ということでした。お見通しといいますと、何か悪事が露見して神から罰せられるような響きがあります。しかし、神は、そのような表面的な見方とは全く異なり、その人が悪事をせざるを得なくなった境遇や、その人の心の弱さにまで思いを致され、悔い改めの道を備えてくださる。さらには、目に見える成果が出せない者、人から評価されない小さな者についても、その者たちが陰でひたむきに、あきらめずに努力しているならば、神はその姿を目にとめられ、必ずやどこかで花開くようにしてくださる。神は決してあなたがたを見捨てない。生きるにも死ぬにも神がともにいてくださる。そのことが、何よりもの慰めであると知らされました。
 そして、学び始めの頃は理解に苦しんだ福音書の中のたとえ話、マタイによる福音書二十章のぶどう園の労働者のたとえなども、キリスト教の授業をきき、そして就職活動で苦しんでいるうちに、何かすーっと心の中に響いてくるようになったのは、得難い経験だったと思います。

 昨日から受難週に入りました。私たちも今、卒業の喜びに浸るのと同時に、主イエス・キリストの受難を思うがごとく、これまでの経験をもう一度思い返して、そこからの学びを将来への糧にしたいと思います。そして、来週の四月一日という日を喜びをもって迎え、その翌日に、社会への着実な一歩を踏み出したいと考えます。本日は、誠にありがとうございました。卒業生一同とともに、母校、東北学院大学の一層の発展をお祈りし、答辞といたします。

平成三十年三月二十六日
卒業生総代 法学部法律学科四年 佐藤春希

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