東北学院大学

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東北学院大学研究ブランディング事業シンポジウム「苦難と救済-パウロにおける苦しみの意義-」開催報告

2018年10月19日

 10月13日(土)午後1時より、土樋キャンパスホーイ記念館ホールにおいて東北学院大学研究ブランディング事業シンポジウム「苦難と救済-パウロにおける苦しみの意義-」が開催されました。
 昨年10月に開催された同事業のシンポジウム「我は福音を恥とせず ―新約聖書における<福音>理解 ―」に引き続き、本年度も本学の建学の精神である「福音主義キリスト教」の理解を深めるため、ドイツと日本におけるパウロの研究者をお呼びしました。

 総合人文学科の吉田新准教授の趣旨説明の後、まず最初の講演者であるアウクスブルク大学哲学社会学部教授ペトラ・フォン・ゲミュンデン先生より「パウロにおける苦しみとその克服」と題する発表がありました。
人はさまざまな場面において、それぞれの強弱と深度で苦しみと向かい合いますが、苦しみは人を成熟させ、また成長せることもあり、私たちとその世界を一変させる力があります。このような苦しみの積極的な側面をパウロの言説を通して学ぶことができるとフォン・ゲミュンデン先生は説明します。
 発表の前半では、神学の伝統に従って神論、キリスト論、教会論、終末論の観点から、パウロにおける苦しみとその克服の意義をめぐる問題について説明され、その内容を踏まえて後半では、パウロにおける実践に根差した苦しみの克服について説き明かされました。
 ヨブとパウロの苦しみ理解の対比を通して、フォン・ゲミュンデン先生は講演を次のように結ばれました。「ヨブとは異なり、パウロは苦しみを目の前にして反抗することはありません。苦しみを前にした際の神への非難は、パウロにおいては、全く姿を現しません。パウロにとって神は、ヨブが体験したように遠い存在ではなく、不当なことを行う方ではありません。キリストにおいて、神は極めて近い存在です。ヨブにおける神との間の距離とは対照的に、パウロにおいて、キリストの神秘を通して、神との間の近さがあります。神はキリスト(そして霊)の中でそばにおり、共に苦しみを体験される方です。ヨブとは異なり、苦しみは神を人の近くに動かします」

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 次に西南学院大学名誉教授の青野太潮先生から「パウロの『十字架の神学』から見た『苦難』の問題」と題する講演をいただきました。パウロは苦難のなかに、逆説的に神の肯定を見て取っています。パウロの「十字架の神学」を視座に据え、このような捉え方の現代的な射程についてお話されました。青野先生はイエスの「死」と「十字架(上の死)」の区別を何度も強調され「『十字架』が『罪の贖い』として、すなわち『贖罪論』と結合して語られる個所は、新約聖書の中には皆無です。広く人口に膾炙(かいしゃ)している『イエスさまは私たちの(罪の)ために贖いとなって、あるいは身代わりとなって、<十字架にかかって>死んでくださった』という言い方に見られるような贖罪論的な表現は、新約聖書のどこにも見出されません」と強調されました。パウロの苦難の理解の中心は、この十字架の死の逆説性にあります。それゆえ、「ガラテア書においては、特に2章19節の『キリストとともに十字架につけられてしまっている』、さらに6章14節の『十字架によって、世はわたしに対して、わたしは世に対して磔にされてしまっている』が明示しているように、苦難の生を生きている信徒の実存は、この『十字架』によって常に決定づけられてしまっていることが言われています」と述べられました。
181019-5_3.jpg 最後に吉田准教授は、パウロの苦しみ理解はその後のキリスト教にどのように受容、展開されたのかについて、第一ペトロ書を例にし説明しました。パウロの苦しみ理解はそのまま継承されることなく、第一ペトロ書ではこの書簡の成立事情が反映されているからか、勧告句と結び付いて理解されるようになったと述べました。「パウロの苦しみ理解と異なるのは、キリストの苦しみを模範として、それを勧告句の形式で語ることです。第一ペトロ書は苦しみに耐える模範です。パウロ書簡と同様に、第一ペトロ書の苦難の理解は黙示文学に起因する現在の苦しみと栄光が対比されています。苦難を模範とする生き方を奨励するのは、将来受けるであろう栄光が存在するからです。ですから、耐えることが強調されています」
181019-5_4.jpg 3人の講演の後には質疑応答を交えた討議がなされ、活発に意見が交わされました。

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