【敬神愛人】東北学院の苦難 ―戦時下の混乱と航空工業専門学校―(史資料センターWEBコラム)
2025年06月11日
1937年に戦端を開いた日中戦争、および1941年に始まる太平洋戦争の混乱は、創立50年に至ったばかりの東北学院の前途にも暗い影を落とし、「皇道精神」の発揚という国家的イデオロギーのもと、キリスト教主義教育への社会的圧迫がますます強まる一方でした。創立以来、アメリカのドイツ改革派教会から援助を得てきた東北学院は、この戦争を機に大きな後ろ盾を失ってしまいます。さらに、学校教育の重職にあった外国人宣教師は一夜にして「敵国人」となり、アメリカへと送還されてしまいました。
こうした戦時下の社会的圧力は、東北学院の教育体制にも大きな改編を強いました。すでに財政的問題もあいまって廃止されていた神学部(1937年3月)に続き、1942年9月には高等学部文科が閉じられ、もはや高等商業部(旧高等学部商科)を残すのみという状況にまで至ります。新体制による再出発もつかの間、日本軍の敗退が続く1943年、いよいよ時勢は「決戦態勢」へと突入し、学校教育を緊迫した状況へと追い込んでいきます。軍需を支える理工科系の組織強化、および法文科系の縮小を求めた政府の要請を受け、各地の教育機関は国策に応じた改編を行わざるを得ず、東北学院もその例外ではありませんでした。高等商業学部では1944年度入学の生徒募集が停止され、翌年の廃止を運命付けられてしまいます。
かくして窮地に立たされた東北学院は、航空機の生産・整備技術に特化した専門学校への転身によって存続を図ります。「不要不急」の教育機関とみなされ廃校が迫る中、第3代院長出村悌三郎は、当時航空機産業に力を入れていた萱場製作所(現カヤバ株式会社)の創立者である萱場資郎を頼り、“東北学院航空工業専門学校”の設立を試みました。また、隣接する東北帝国大学から招聘した宮城音五郎(工学部長)を校長に据え、帝国大との兼務で教員をまかなう体制が整えられ、さらに「実験、教育設備借用ノ援助」を受けることとなります(図1「東北学院航空工業専門学校設立趣意書」)。
図 1「東北学院航空工業専門学校設立趣意書」 |
なお、設立会議に参与した三品鼎(みしなかなえ)の回顧録によると、「東北学院がなくなるのではないか」との「母校の危機を憂う」理事や教職員その他委員の声が上がり、“東北学院”と冠した名称に決定したようです(1974年8月28日発行『東北学院時報』三品鼎「東北学院と裏方 その三」)。こうして1944年3月にスタートを切った航空工業専門学校は、学校施設の多くが軍に接収されながらも、定員150名に対し十倍近い入学応募者を集めました。
図 2 航空工専生徒佐藤壽郎と萱場製作所寄贈の戦闘機 |
図 3 航空工専の生徒や教職員 |
翌1945年8月に敗戦を迎えると、航空工業専門学校は“東北学院工業専門学校”へと改称されます。翌年には、英文科・経済科を置く“東北学院専門学校”に転身し、これが現在の東北学院大学の母体となりました(詳細は「東北学院大学前史―東北学院専門学校の時代―」2019年4月9日掲載webコラム「敬神愛人」)。わずか2年弱の短命ながら、航空工業専門学校は東北学院の存続に重要な役割を果たしていたのです。