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【敬神愛人】「東北学院卒業生・栗原基が見た恩師小泉八雲の姿」(史資料センターWEBコラム)

2026年01月21日

 ギリシャ生まれ、アイルランド育ちのさすらいの人・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)は、2025(令和7)年度後期のNHK連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公である松野トキの夫レフカダ・ヘブンのモデルとなったことで話題になりました。ハーンは明治期に活躍した新聞記者、作家、教育者であり、日本の習俗や口承を平易な英語で紹介した著作『知られぬ日本の面影』『怪談』などの著者としても知られています。

 ハーンは54歳で急逝するまでの約14年間を日本で過ごしましたが、そのうちの1896(明治29)年から1903年までのおよそ6年半の間は、東京帝国大学(現在の東京大学)で英文学の講師を務めていました。その時のハーンの講義を熱心に受講した学生の中に、栗原基という一人の青年がいました。

 栗原は、広島高等師範学校(のち広島大学に包括)や第三高等学校(のち京都大学に包括)で教授を務めたほか、第二次世界大戦後は、郷里仙台で尚絅女学院(尚絅女学校の後身、現在の尚絅学院)短期大学教授や宮城学院理事などを歴任した教育者として知られています。また、熱心なクリスチャンだった栗原は、第二高等学校(のち東北大学に包括)在学時に内ヶ崎作三郎や内村鑑三らとともに、尚絅女学校初代校長を務めたアニー・S・ブゼルに師事しており、のちに彼女の伝記『ブゼル先生伝』を執筆したことでも有名です。

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広島高等師範学校教授時代の栗原基
1910(明治43)年頃撮影)

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東北学院創立66周年記念講演を終えた栗原基
1951(昭和26)年1015日撮影)

 旧仙台藩士の家に生まれた栗原は、新島襄が仙台に開いた東華学校に通っていましたが、同校の閉校に伴い、1892年に東北学院本科へと転校することになります。東北学院では、講堂全体に響き渡る押川方義の美声に心酔したり、真夏に汗を流しながらホメロスの『イーリアス』やゲーテの『ファウスト』の原語版を読む同級生・岩野泡鳴の姿に感服したりと、充実した日々を送ったようです(岩野泡鳴については、「偉大な小説家 岩野泡鳴の東北学院時代」(2025年9月3日掲載WEBコラム)もご覧ください)。1895年の東北学院卒業後は、第二高等学校を経て、1898年に東京帝国大学文科大学英文学科へと入学します。栗原は、東北学院卒業生の中で、最も早い時期に帝国大学への進学を果たした秀才の一人でもありました。

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東北学院本科在学時代の栗原基(前から3列目、左から3人目)
1894(明治27)年4月撮影)

 3年にわたってハーンの講義を受けた栗原の回顧によれば、ハーンの英語の発音は明瞭かつ流ちょうで、声色も魅力的であったといいます。また、日本人の学生がメモを取りやすいように、特に簡潔な言葉と短い文章を用いることに気を遣っていたようです。そんなハーンの口述や板書をノートに書き写していると、1回の講義で79枚分が埋まったと振り返っています。

 ハーンは栗原が大学在学中に最も尊敬した教員の一人だといわれていますが、ハーンもまた、栗原の語学力を高く評価していました。しかし、学費や生活費を稼ぐべくアルバイトに勤しむ必要があった栗原は、講義以外でハーンと接することはありませんでした。大学構内の育徳園心字池(三四郎池)のほとりで、あたかも瞑想するかのようにたばこを吹かして静かに佇んでいるハーンを見かけても、それを遠くから眺めることしかできなかったといいます。後年栗原は、ハーンと積極的に親睦を深める機会を持てなかったことを「非常に後悔している」と述べています。

 ハーンが東京帝国大学で行った講義内容の一部は、彼の死後に相次いで刊行された講義録によって知ることができます。これらの講義録は、数人の受講者らが筆記していたノートの記述が典拠となっており、栗原が終生座右に置いたという受講ノートもその一つだと考えられています。

 東京帝国大学時代のハーンによる講義録の主要部分は、近年KADOKAWAから出版された文庫本『小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために』にまとめられ、従来よりも簡単に入手できるようになりました。ハーンの声の響きや黒板上の筆致を想像しながら、栗原たちを魅了したハーンの英文学講義に思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。