【敬神愛人】「世界平和は単に空しい夢ではない~シュネーダーと日本移民排斥問題~」(史資料センターWEBコラム)
2026年03月11日
今から100年あまり前の1924(大正13)年7月、米国で排日移民法が成立しました。それまでの米国内では、日本人労働者が低賃金で続々と流入することへの脅威と、米国社会に同化しようとしないことに対する反発が強まっており、日本政府は自主的な移民規制を行い、米国の移民受入禁止を回避してきました。しかし、この法律が成立したことで、いよいよ日本人の米国への移民は禁止されました。
米国出身の宣教師で東北学院長であるシュネーダーはこの動きを、母国・米国におけるキリスト教文明の敗北・後退であり、「恥辱」であるとみていました。
デイヴィド・B・シュネーダー |
法案成立からさかのぼること4か月前、帰米中のシュネーダーは米議会上院の移民特別委員会で、日本人移民が現地社会に同化している事例が少なくないことなど、反日本人移民論に反論しています。
一方、シュネーダーは日本国内での排日移民法案の廃案に向けて取り組んだ人びととも協力しました。
近代日本経済の父として知られ、一万円札の肖像になった渋沢栄一は日米親善を重要視しており、排日移民法案の廃案に向けて米国内の有力者に働きかけていました。その渋沢に対しシュネーダーは1924年5月29日、「小生は閣下と共に泣く」(渋沢側の訳文、原文は「I weep with your excellency」、『渋沢栄一伝記資料』第34巻p.297(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』)より)との一文を打電します。これは、その3日前に米大統領が法案に署名して成立が決定的となったことを受けてのものと思われます。
また、シュネーダーはこの年の12月に帰仙しますが、その際、教職員主催の歓迎会の席上で「米国政府のとつた方法の遺憾であること」(花輪「雑報」『東北学院時報』第58号、1925年1月26日発行より)を語ったとされます。
法案成立後、シュネーダーと渋沢は排日移民法の撤廃に向けて模索してゆきます。
渋沢栄一 |
1925(大正14)年2月7日、シュネーダーは渋沢が日米の関係改善のために立ち上げた日米関係委員会に招待されました。この場でシュネーダーは、①前駐日米国大使から排日移民法が撤廃になる見込みがあると耳にしたこと、②米国内で日本人に同情する世論が多数であること、③具体的時期は未定ながら早期解決の可能性があることなどを証言しました。さらに、この問題解決は「日米両国の平和のみに止まらず世界の平和」(「日米関係委員会集会記事摘要」、『渋沢栄一伝記資料』第34巻p.468(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』)より)のためであるとも語りました。
この3日後の2月10日、シュネーダーは渋沢宛ての書簡で、渋沢の努力にもかかわらずついに良い結果をもたらさなかったことは「我国の恥辱」(渋沢側の訳文、原文は「my country's shame」、『渋沢栄一伝記資料』第34巻p.470(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』)より)であると母国・米国を強く非難しました。
しかし、シュネーダーらの尽力もむなしく排日移民法が撤廃されることはなく、日米関係はますます悪化の一途をたどり、1941(昭和16)年12月の日米開戦へと至ります。
「すべての人種や国民が、平和と兄弟愛と協調と幸福のうちに共に住み、世界中に平和が満ち溢れるということは、単に空しい夢ではない」(『シュネーダー博士の生涯』より)。これは、亡くなる3か月前の1938(昭和13)年7月、シュネーダーがNHKラジオの全国放送で聴衆に語りかけた言葉です。
1945(昭和20)年8月、3年半あまりの太平洋戦争は日本の敗北によって幕を閉じました。世界平和は単に空しい夢ではない。そう語ったシュネーダーの信念は、戦後、焼け野原となった仙台で復興を後押しした後輩の米国人宣教師たち(J-3)、そして、日本国憲法の制定で条文に「国際平和」を挿入するよう強く主張した日本人の教え子(鈴木義男)と、日米双方の次世代へ受け継がれてゆくのでした。
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戦後日本に3年間(Japan for three years: J-3) |
鈴木義男 |