【敬神愛人】「近代日本に新たな食を拓いた東北学院ゆかりの夫婦」(史資料センターWEBコラム)
2026年04月23日
菓子パンの代表格ともいえるクリームパンや、スパイスの香り豊かなインド式のカレーライス──私たちの暮らしに根付いたこれらの味を日本に広めたのは、東京・新宿に本店を構える「中村屋」の創業者、相馬愛蔵・黒光(こっこう、本名:星良〔ほしりょう〕)夫妻です。近代日本の食文化に大きな足跡を遺した彼らの原点をたどると、明治期の仙台、そして意外にも東北学院創立期の人々との交流に行き着きます。
北アルプスの麓に位置する長野県東穂高村(現:安曇野市穂高)に生まれた相馬愛蔵(1870-1954年)は、17歳で東京専門学校(早稲田大学の前身)へと進学し、東京・市ヶ谷の牛込教会(現:牛込払方町教会)に足しげく通いはじめました。同教会では、植村正久や内村鑑三ら近代日本プロテスタント史上の重鎮たちから教えを受け、さらに直接の面識はなかったといいますが、仙台神学校(東北学院の前身)創立者・押川方義の声望も耳にしていたようです。東京専門学校を卒業した愛蔵は東京を離れ、移住先の北海道で農業経営を学んだのち長野へ帰郷し、養蚕研究に打ち込みはじめました。郷里では養蚕技術の向上に寄与するかたわら、キリスト者として東穂高禁酒会を組織するなど、社会運動にも力を注ぐようになります。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 |
1897年、愛蔵は養蚕技術の指導を求めてきた孤児院の金銭的支援を募るため、東北学院院長・押川のもとを訪ねました。仙台では寄付への協力を得るにとどまらず、押川を中心とする学院関係者との深い親交を築くに至ります。なかでも押川の秀でた弟子として知られ、仙台神学校最初の学生の一人であった島貫兵太夫は、愛蔵の人生に大きな転機をもたらしました。この時すでに学院を卒業していた島貫は、後年、愛蔵に星良(1875-1955年)という一人の女性を引き会わせることとなります。
さて、ペンネームを黒光とも名乗った星良は、旧仙台藩士である儒学者の家系で育った生い立ちを持ちますが、幼い頃からキリストの教えに関心を寄せていたのだそうです。1889年、14歳で東二番丁小学校高等科に進んだ彼女は、仙台神学校校舎と共に小学校付近(現:青葉区一番町2丁目2番地)へと移転していた仙台教会において、祖母・母をはじめ、押川の長男方存(まさあり、後の春浪)らと同じ日にウィリアム・E・ホーイ(押川とともに神学校を創立)により受洗しました。この頃を回顧し、「押川先生の厳然と控えられる前で、私は島貫さんにキリスト教の教育を受けた(中略)兄といっては足りない、親も及ばぬほどの世話になりました」と書き残すように、とくに、当時神学生であった島貫には深い信頼を寄せていた様子が垣間見えます(相馬愛蔵・黒光著作集刊行委員会編『相馬愛蔵・黒光著作集 5』郷土出版社、1981年)。
宮城女学校に進んだ良は、ほどなくして横浜のフェリス和英女学校(現在のフェリス女学院)へと転学しました。なお、彼女の幼馴染でもある東北学院図画教師・布施淡は、和英女学校生の加藤豊世と後に夫婦となりますが、この仲は豊世と親しくしていた良が橋渡ししたと言われています。和英女学校に転じて3年後、さらに明治女学校へと学び舎を移った良が20歳を迎えた頃のことです。彼女は島貫に紹介され、信州の山村で養蚕に励む愛蔵と交流を持ちはじめました。良22歳・愛蔵27歳となった1897年、牛込教会で挙げられた二人の結婚式はアメリカ人宣教師J・P・モールによって導かれましたが、当初は押川が司会を務める予定であったと伝えられています。
結婚後、東穂高村での生活を経て上京した相馬夫妻が、新たな生計の道を模索するなかで目を付けたのがパン食の普及です。二人は東京帝国大学正門前にあった「中村屋」という小さなパン店を譲り受け、屋号をそのままに暖簾を掲げ直しました(1901年)。創業間もなく新製品の開発に力を注ぎ、開業3年目にして発売したクリームパンは、シュークリームから着想を得たものと言われています。また、1923年に株式会社へと改組するとともに、店内に喫茶部を設け、亡命していたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースの勧めで「印度式カリー・ライス」を提供しました。イギリス式のカレーがようやく定着したばかりの大正期日本において、多種多彩なスパイスを組み合わせた本場インドの味わいは驚きをもって迎えられましたが、やがて「中村屋」の看板商品となっていきます。
工夫と挑戦を形に変え、近代日本の食文化に確かな転換点を築いた相馬夫妻──彼らの原点をたどると、東北学院の歴史に名をのこす人々との交流が見えてきます。押川や島貫の導きは、若き頃の愛蔵を動かす転機となり、また、黒光こと良にとっても「まことに一朝一夕には言い尽されぬものがあり、世にも有難い御縁であった」と振り返るほど、心に深く刻まれたものでありました(相馬黒光『黙移』法政大学出版局、1961年)。