2026年度9月期卒業式式辞
9月期卒業生の皆さん。ご卒業おめでとうございます。この日を心待ちにされていた保護者の皆様のお喜びはいかばかりかと存じます。東北学院大学を代表し、心よりお祝い申し上げます。
さて、皆さんが卒業される東北学院は、今年で創立140年を数えました。大変歴史の古い学校です。この記念すべき節目に卒業される皆さんに140年前の創立時のエピソードを語り、本学の建学の精神について述べて、学長の祝辞としたいと思います。
東北学院は、1886(明治19)年5月に、それが何日であったかは、今のところ特定できませんが、2名の教師と6名の生徒によって産声をあげました。2名の教師とは、横浜バンド出身の牧師で、日本で最初のプロテスタント教会の会員である押川方義。もう一人は、1885年12月に来日したばかりのアメリカ合衆国改革派教会という、アメリカにおけるドイツ語圏からの移民から構成されるプロテスタントの教派から派遣されたウィリアム・ホーイ宣教師です。6名の生徒の年齢は、19歳から32歳で、そのうち24歳の青年は結婚して3人の子供がいたということですから、教員学生比率も良く、ダイバーシティに富んだ「小さな学校」が誕生したのです。
140年前の東北学院の創立については、2つの偶然があったと私は考えています。第1に、合衆国改革派教会にとって、仙台に伝道の拠点を構えることは決まっていませんでした。第2に、合衆国改革派教会は日本に女学校を建てることは計画していましたが、よもや男子校の東北学院まで建てることは計画されていませんでした。
140年前の仙台にタイムスリップしてみましょう。140年前、すなわち、明治19年の仙台は、人口7万人ほどの仙台藩の旧城下町でした。明治維新から、19年も数えるのに、仙台鎮台として軍都ではありましたが、文明開化の象徴である上野から塩竃間の蒸気機関車は開通しておらず、東北大学の前身である第二中等高等学校は開校していませんでした。それらが実現したのは、仙台神学校が開設された一年後のことです。文明開化は遅れていますが、そんな仙台にアメリカ人宣教師が来て学校を作って伝道を手伝ってほしいと願い出たのが押川方義です。
その押川方義ですが、「英語青年」から「日本で最初のプロテスタント教会」のメンバーとなった人です。徳川幕府の親藩大名が城主である伊予松山藩の下級武士の出身でした。維新後、藩命を受けて東京留学を果しますが、戊辰戦争の敗北によって受けた「賊軍の汚名を晴らすために」英学で身を立てようと、開港都市の横浜に移りました。薩長土肥の出身者が新政権を牛耳る中、戊辰戦争で敗れた佐幕派の青年にとって立身出世の武器は英語でした。押川は、英学塾のブラウン塾を経て、「この国を救い給え」と祈るアメリカ・オランダ改革教会派遣宣教師ジェームズ・バラの人格的感化を受け、クリスチャンになりました。1872(明治5)年、日本で最初のプロテスタント教会のメンバーである横浜公会の11名の1人として受洗したのです。キリスト教が事実上解禁される「キリシタン禁制の高札」が撤去される前年のことです。それから3年後、開港都市の1つである新潟で医療伝道に従事するエディンバラ医療宣教会派遣のセオボールド・パーム宣教医師を助けるために新潟で伝道しました。浄土真宗の王国である新潟では、キリスト教に対する反発が強く、パームの日本人通訳に似た人物に対する殺害事件すら起こりました。日本人牧師の養成をしていたバラ塾で、だれもパームを助けに新潟に行く人がいなかったときに、「しからば吾輩が行く」と勇気をもって手を挙げたのが押川であり、新潟での伝道は、押川の火のような情熱的な説教も手伝って成功を収めました。しかし、1880年の新潟大火を契機に、仙台に伝道の拠点を移すことにしました。仙台は、押川の新潟での弟子で、当時「くぞうず」といわれた石油を発掘しに新潟に来ていた吉田亀太郎の故郷石巻の近くであること、東北各県に2度、3度の伝道旅行を重ねるうちに、開港都市ではないが、東北6県600万人の中心都市である仙台に伝道拠点の可能性を見出したのです。先端治療技術であるリヒター防腐法を取り入れ、手術しても化膿せず、死人をも蘇らせる「パンの医者」として新潟市民に親しまれたパームは、押川らの仙台移転に同意し、当面の伝道資金を援助してくれました。押川が「東北をスコットランドに」という幻を掲げたのは、スコットランド出身のパームの影響があると思います。仙台で伝道を開始した押川は、その翌年の5月には、仙台に教会を設立しました。現在の日本キリスト教団東1番丁教会ですが、初代牧師には吉田が就任し、45名の信徒がいましたし、伝道は広がり、岩沼、古川、石巻に教会もできるようになりました。
今度は、仙台にきた宣教師についてお話ししましょう。日本は300年の鎖国やキリスト教の禁止により、西洋列強から大きな後れをとっていました。アメリカ長老教会の、ヘボン式ローマ字で有名な宣教医師ヘボンが日本に上陸したのは、幕末の1858年に日米通商修好条約により横浜が開港した翌年の安政6年のことです。明治維新が起こってもキリスト教は禁止されていましたが、1873(明治6)年に「キリシタン禁令の高札」が明治政府によって撤去されることによって、多くの海外宣教団体が日本伝道を開始して、東京や大阪の大都市は、宣教師の言葉づかいによれば「占領済み」となっていました。
そんななか、合衆国改革派教会が宣教師を日本に派遣します。1879年にグリング夫妻、1883年にモール夫妻を派遣しました。いずれも東京に教会を設立しましたが、先に到着していた長老派やアメリカ・オランダ改革派教会が明治学院やフェリス女学院を、アメリカ聖公会が立教学院、メソディスト教会が青山学院、組合教会が同志社を創設して成功しているのを見て、学校、神学校が伝道の大きな手助けとなることを確信し、グリング夫妻は強く日本における女子神学校の設立を母国の海外伝道局に訴えます。それを受けて、1885年4月21日に、合衆国改革派教会は、ウィリアム・ホーイを日本伝道の宣教師に任職、エリザベス・ブルボーとメアリ・オールトを「独身女性」として任命し、2人の独身女性に日本で女学校を開設する使命を与え、海外伝道局は5000ドルを醵金し、それによって「日本に女子神学校を設置する」という提案を採択します。
ホーイは、1858年生まれ、ペンシルベニア州に移住したドイツ系開拓者の息子で、同州にあるフランクリン・アンド・マーシャル大学、ランカスター神学校を卒業した青年牧師で、海外伝道に召命感をもち、1884年に宣教師を志願しました。しかしながら、合衆国改革派教会は、教会員数17万人の小さな教派で、海外伝道の日も浅く、伝道戦略、すなわち、どこに女学校を作るのかまとまっていませんでした。モール夫妻は、東京以外の場所における学校設立に反対し、グリング宣教師も、同じ改革派のバラ宣教師から押川を紹介され、仙台への学校の設立を求められても、Yesということはありませんでした。
ホーイは、1885年12月に来日しましたが、横浜上陸3日後、バラの自宅で、ホーイは押川と運命的な出会いをしました。「どうか仙台にきて、わたしたちを助けてください」。その後、ホーイとグリングは文字通り師走の仙台に視察に出かけ、帰京。なんと新年元旦に開催された合衆国改革教会在日宣教団の最初の会合で、宣教師団はホーイを仙台に派遣することを決め、海外伝道局に対し日本基督教一致教会への加入を勧告することを決議したのです。
そのホーイの熱意が神学校を作ることになります。ホーイは押川に6人の学生たちの面倒を見ると約束し、自腹を切って、6人の学生の生活の面倒を見ていたというのが実情でした。ホーイ自身は、設立の当初をこう振り返っています。
「わたしが耳にしたのは、6人の青年がわたしの下に来て、福音の伝道者になる訓練を受けたいと言っている、ということでした。・・・わたしの薄い財布からこの約束を守るには、最も厳しい切り詰めと、最も組織的な自己否定が必要でした。実に、神ご自身がわたしの伴侶でした。・・・空腹をかかえたままで過ごすことも一再に止まらず、身に着けるものといえば継ぎ布の当たった古着だけでした。最初にはストーブも買えなかったので、小さな火鉢の炭で手の指を温めるだけでした。しかも、この一年は私の生涯で最も幸福な年でした」。
仙台神学校は、承知の通り、その1年後には、ミッションボードから承認され、援助を受けるようになり、5年後の1891年には、東北学院(North Japan College)と改称し、神学のみならず、普通教育も授ける学校として成長し、今日に至ります。
140年前の創設時の出来事から、今日、本学を卒業して社会に羽ばたく皆さんに、本学建学の精神を述べたいと思います。物事は、よほどのことがないかぎり計画通りに進むことはありません。仙台に東北学院が開学したことは、偶然の重なりでした。しかし、そこには、35歳の押川方義と27歳のウィリアム・ホーイの福音主義キリスト教の信仰から湧き上がるLIFE LIGHT LOVEの精神があったのです。LIFE、すなわち、押川もホーイも文明開化の日本において、神から与えられた命を活かすために、命をかけて、命を繋ぐ学校を仙台に作りました。LIGHT、すなわち、これまでの古い時代に対して、キリスト教や西洋の学問によって光を照らそうとして手を取り合いました。LOVE、すなわち、愛によって互いに信頼し合い、国境を超えてできたのが東北学院です。これから皆さんは、社会や家庭で思いがけない出来事に出会うでしょう。しかし、皆さんが学んだ東北学院のスクールモットーであるLIFE LIGHT LOVEを大切にして、新しい時代を切り開いていってもらいたいと願います。ご卒業おめでとうございます。
2026年9月30日
東北学院大学 学長 大西 晴樹