
塚本 信也
教養学部の方法 ―― 無関心ではいられても、無関係ではいられない
北は北海道から南は沖縄まで、大学のない県はありません。47もの選択肢に関わらず、皆さんはなぜ宮城県を選んでくれたのでしょうか。その宮城県には複数の大学があるにも関わらず、皆さんはなぜ東北学院大学を選んでくれたのでしょうか。東北学院大学には複数の学部があるにも関わらず、皆さんはなぜ教養学部を選んでくれたのでしょうか ――
冒頭から、玉葱の皮を剥くような、マトリョーシカを楽しむような塩梅になってしまいました。しかし、「縁は異なもの」とか「袖振り合うも多生の縁」という言葉はご存知でしょう。皆さんにとって私の拙い挨拶を読むに至った理由は偶然にすぎないのかもしれませんが、だからといって「こんなはずではなかった」などと誰彼に愚痴ってしまっては教養学部生の名がすたります。人間ですもの、誰にも事情はあります。「こんなはずじゃない」のが世の常であり、「それをいっちゃあ、おしめえよ」こそは教養人のたしなみなのです。
例えば、計算を重ねたところ、地球が回っていなければおかしい結果が出た。でも、「そんなはずじゃない」より「そうくるか」で受け止める。このスピリット、姿勢、心構えこそが、きっと科学を前に進めてきたはずです。もとより、常識はとても大切で、重視されるべきですけれど、他方で理不尽な先入観や徒らな思い込みは修正刷新されねばなりません。昨日の常識は今日の非常識、あるいは昨日の暴論は今日の正論、これはLGBTQやSDGsの問題を思い描けば、わかりやすいところでしょう。但だ、その切り出し方、匙加減、線引きがなかなかに難しい。そして、このあたりで「あれ?」と思い悩めること自体が、学問世界へのトバ口に立った証拠なのです。
「あれ?」の典型は、原因と結果が結びつかないこと、インプットとアウトプット、入力と出力が呼応しないことかもしれません。自販機ならば、500円を入れ、ボタンを押せば、ほしいそれが手に入ります。誰が500円を投入しても、結果は変わりません。変わったら一大事です。けれど、人間の生活、社会は必ずしもそうはいかない。「押すなよ、押すなよ」とおもしろおかしく懇願されたら、逆に強くドンと押さねばならぬのがコミュニケーションというものでしょう。意味と意図がズレることは半ば社会生活の宿命で、大学も社会生活の一部であれば、自販機のようにシンプルにはゆかないのです。世界というやつが私や我々といった一人称の希望通り、予想通りには展開しないこと、これもコロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ問題等を思い描けば、合点してもらえるはずです。
「あれ?」の違和と可能性を楽しむために、教養学部は積極的に脇目を振ってみたり、別の誰かの靴を履いてみたりします。悪戦苦闘しつつ融通無碍に、人間を、文化を、情報を、地域を繋いだり重ねたり、俯瞰したり仰望したり、想定外も想定内に裏返し、思考や方法の多様性多層性と学際性を身をもって確かめます。
当然、在学中には少なくない書物に目を通すことにもなるでしょう。本を開けば答えが書いてあるのかもしれませんが、大学生ですもの、何が書かれていないか、なぜ書かれていないのかにこそ注目してください。答えを探すだけではなく、問いをも立ててみる。バラバラにみえるあれとこれとの間に橋を架けてほしい、補助線を引いてほしい、イマジネーションを馳せてほしいのです。
見たいものしか見ない(見えない)、聞きたいことしか聞かない(聞こえない)、昨今はこの構えをエコーチェンバー現象と称するそうな。そう、「あれ?」を回避敬遠する方法と見事に通底しています。何度でも繰り返しますが、無関心ではいられても、無関係ではいられないのです。それを自覚することが教養を培うことの第一歩であり、そこに教養学部生のプライドはかかっています。
ひとまず時間は誰にも平等です。どうか寸暇を惜しんでいただけますよう。