東北学院大学

学長の部屋

2022年度9月期卒業式告辞

9月期卒業生の皆さん。ご卒業おめでとうございます。この日を心待ちにしてこられた保護者の皆様のお喜びはいかばかりかと存じあげます。東北学院大学を代表しまして心よりお祝い申し上げます。

今日は、本学ゆかりの人物についてお話しすることにしましょう。その人物とは、東北学院の教師もしたことがある島崎藤村です。今年は、島崎藤村の生誕150周年に当たります。藤村は、皆さんもご存知のように、森鴎外、夏目漱石と並んで近代日本の三大文豪に数えられており、生誕150年を記念して、今年は間宮祥太郎主演の映画『破壊』が各地で上映され、静かな人気を呼んでいます。

島崎藤村。本名は島崎春樹です。「ハルキ」の春はスプリングの春という字を書きますが、呼び方は私と同じです。その藤村は、1872(明治5)年信州木曽の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)で生まれました。郷土の期待もあったのでしょう。9歳にして上京し、1887(明治20)年、東北学院と同じプロテスタント・キリスト教の学校である明治学院普通部に入学し、1891(明治24)年に卒業しました。15歳から20歳までです。

5年間の在学中、一、二年次の成績は、クラスでトップでしたが、何らかの挫折が藤村を襲いました。藤村の自伝小説『桜の木の熟する時』には、このように述べられています。「心の闘いの結果は、覿面(てきめん)に卒業の成績にも酬(むく)いて来た。学校に入って二年ばかりの間は級の首席を占め、多くの教授の愛を身に集め、しかも同級の間での最も年少なものの一人であった彼も、卒業する時は・・・ビリから三番目ぐらいの成績で学校を出て行くことに成った」。この自伝小説では、近隣のミッションスクールの女子生徒との恋愛感情を描いていますが、私はそうは思いません。藤村自身明らかな進路変更をしたというのが真相のようです。すなわち、周囲の人々は実業家を期待し、藤村自身は政治家を夢見て、第一高等学校を受験しましたが、それに失敗して学業に力が入らなくなった。というよりも、成績だけを追いかけるような優等生的な勉強の仕方を改め、もっと広い意味での学問を志すようになったのです。その消息を藤村はこのように述べています。「捨吉(藤村)に言わせると、自分等の前にはおおよそ二つの道がある。その一つはあらかじめ定められた手本があり、踏んで行けば可い先の人の足跡というものがある。今一つにはそれが無い。なんでも独力で開拓しなければ成らない。彼が自分勝手に歩き出そうとしているのは、その後の方の道だ。言いがたい恐怖を感ずるのも、それ故だ。心の闘いの結果は、・・・ビリから三番目ぐらいの成績で学校を出て行くことに成った。しかし、彼はそんなことに頓着しなくなった。他の学校に比べると割合に好い図書館が有り、自分の行く道を思い知ることが出来、それからまた管(戸川秋骨)や足立(馬場孤蝶)のような友達を見つけることが出来たというだけでも、この学窓に学んだ甲斐はあった」。藤村は、明らかに良い成績を収めることで学校を卒業したのではなく、近代文学をともに担うような友人を見つけ、また大学の価値を卒業後も利用できる充実した図書館に見出して学校を卒業したのです。

藤村は明治学院在学中に、実はキリスト教の洗礼を受けていました。藤村が通っていた予備校である共立学校の英語の教師で、高輪教会の牧師でもあった木村熊二という牧師にして、教育者から17歳の時に受洗しています。藤村のことを絶えず気にかけてくれていたのが木村先生でした。卒業後、藤村は、その木村が教頭をしていた明治女学校に教師として就職します。しかし、学校を卒業した20歳そこそこの文学青年、日本の近代という大きな時代の変化の中に置かれ、心の闘いを選んだ藤村の生き方は困難極まるものでした。明治女学校の教師となった藤村は、既に婚約者のいた教え子佐藤輔子への愛に苦しみ、明治女学校を辞し、教師としての自責の念から教会の籍を抜き、10か月にわたる関西方面への漂白の旅に出ます。自殺も覚悟した藤村でしたが果たせず、1894年再び明治女学校に復職した藤村を待ち構えていたのは、雑誌『文学界』の指導者で親友の北村透谷の自殺であり、田舎の長兄秀雄の水道管事件に連座しての収監という事態でありました。追い討ちをかけるように、輔子の死、馬籠の生家焼失の知らせが届きました。こうして、1895年、再び藤村は、失意のもと明治女学校を辞職したのです。

藤村が東北学院の日本作文、並びに訳読の教師として仙台に赴任したのは、このような時でした。教師として宮城女学校から明治女学校へ移り、藤村の同僚であった小此木忠七郎が東北学院への就職を勧めてくれたのです。実は、藤村は、1896(明治29)年9月から翌年7月までのわずか10か月間しか仙台におりませんでした。その間、仙台の自然の美しさと静かさ、東北学院の同僚のホスピタリティ、TG生への教育による充実感、蔵書数の多い図書館の設備等、東北学院でのすべての時間が、失意の下に来仙した藤村の心を癒し、藤村の才能を詩作へと開花させ、藤村の人生の「夜明け」と同時に日本近代詩の「夜明け」を作り出したのです。

まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり という有名な七五調の詩文を、皆さんは中学校の国語で習い、知っていると思います。この「初恋」という詩が収められている『若菜集』を藤村は仙台に来てから6ケ月で書き上げ、再び上京しますが、生活は相変わらず大変でした。

そのような時、再び教師になることによって生活の道を拓き、創作活動の出来る環境を整えてくれたのが、藤村に洗礼を授けた木村熊二でした。当時木村は、長野県にある小諸義塾という学校の塾長をしており、藤村は小諸で6年間過ごすことによって詩作から散文作家の道を拓いていきました。藤村は明治女学校の卒業生で、函館出身の秦冬と結婚し、小諸で新婚生活を始めました。『千曲川のスケッチ』で事実描写という手法を打ち出し、大作『破壊』の執筆に着手し、日本を代表する近代小説家への道を用意したのも、小諸時代です。

私は、このような藤村の成長過程から、今日東北学院大学を卒業する皆さんに次の二つの教訓を贈りたいと思います。第一は、学びの中で培った人間関係を大切にしてほしいという事です。藤村は、文学を志す青年として、「あらかじめ定められた手本があり、踏んでいけばよい先の人の足跡というもの」ではなく、「それが無く。なんでも独力で開拓しなければならない道」を選び取りました。それゆえ、彼の人生は苦悩と困難、そして失望と挫折の連続でした。そんな藤村に救いの手を差し延べたのが、彼の予備校時代の先生で牧師の木村熊二であり、同僚、友人たちでした。現在は、戦争、感染症の蔓延、自然災害、AIなどの急速な技術革新の時代を迎えており、「踏んでいけばよい先の人の足跡」など見いだせない時代を迎えております。どうか、恩師や同僚、友人たちとの絆を強くもち、苦悩や困難に立ち向かっていってもらいたいと思います。

第二は、心の問題です。藤村の信仰については、彼の人生のその後の様々な行いから、キリスト教を棄教したとか、東北学院の同僚の美術の教師で、広瀬川の畔にある同じ下宿で暮らしたことのある布施淡(あわし)から「アンチクリスチャンなれど一種の色ある人なり」と述べられています。藤村自身は自伝小説において、キリスト教についてこう述べています。「お前はクリスチャンか、とある人に聞かれたら捨吉(藤村)は早速以前浅見先生(木村熊二)の教会で洗礼を受けた自分と同じ自分だとは答えられなかった。・・・では、お前は神を信じないのか、とまたある人に聞かれたら自分は幼稚ながらも神を求めている者の一人だと答えたかった」。藤村は、たとえ教会に籍を置かずとも、苦難や失意のなかで神を求めていたのです。決して、棄教したとかアンチクリスチャンではありませんでした。皆さんは、東北学院大学において、礼拝やキリスト教関連科目において、神とは何か、人間とは何かについてしっかり学んだと思います。危機や変化の時代であればあるほど、多様な宗教が出現し、人間の心を惑わせるのだと思います。人間が神を利用したり、あるいは人間が神に成り代わったりして、人々を苦しめるのです。東北学院大学はLIFE LIGHT LOVEをスクール・モットーとしています。LIFE個人の尊厳を大切にし、LIGHT学びや仕事を通じて世の中に貢献し、LOVE人々に愛される人格として、生きていってもらいたいと願っています。

最後になりますが、卒業生の皆さんのご健康、ご活躍をお祈りして、お祝いの言葉とさせていただきます。ご卒業おめでとうございます。

2022年9月30日

東北学院大学 学長 大西 晴樹