東北学院大学

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イザヤ40章6-8節 ヨハネ1:1 「神の言葉はとこしえに」

2020年09月15日

イザヤ40章6-8節 ヨハネ1:1 「神の言葉はとこしえに」

 本年度の水曜公開礼拝は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、休会が続いていますが、本日は礼拝を動画で撮影をし、ホームページで公開することになりました。皆さんと共に、聖書の教えを聞き、希望と慰めを得たいと思います。聖書箇所は、イザヤ書40章の8節の言葉であります。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」です。
 草が枯れ、花がしぼむことは、あたりまえのことで、言うまでもないわけです。しかし、もちろんここでは、植物の話がしたいわけではなく、栄えていたものもいずれは衰える日が来る、私たちの人生もはなやかな日々はありますが、いずれみな老け、衰えて、大地のちりとして消えていきます。景気の良い企業も、さかんな団体もいずれ身動きがとれなくなり、古くなり、新しい取り組みや活動にとって代わられてしまいます。一つの国家の繁栄であろうと、文明も文化も同様に、成長し、発展し、大いに繁栄して終わりが来るわけです。これは万物の法則でもあり、私たちの現実世界です。
 なるほど、万物すべてが移り変わり、栄枯盛衰がこの世の定めとしても、もしこの世界にまったく変わらずにあり続けるものがあるとしたら、いつまでも続くものがあるとしたら、それはどんなに素晴らしい、力強い、頼りになるものだろうかと思います。それを発見し、獲得し、頼りにできる人はなんと幸いか、なんと頼もしいかということになります。
 一般に、あなたにとって、この世界に変わらないもの、これを持っていれば間違いない、これさえあればなんとかなるものは何ですかと尋ねると、現代では、昔もそうだったでしょうが、お金だと言う人は多いと思います。あるいは「幸福」とか、「愛」とか、「家庭」とか、「健康」、「長寿」と、いろいろあるかもしれませんが、お金は、人生を楽しませ、健康を支え、長生きはさせてくれますが、老化を防止したり、呼吸をいつまでも続けることを可能にしてくれるわけではありません。死んでいくときにはすべてを置いて立ち去っていくというのが人の定めです。
 ところで、本日の聖書には、続いて「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と宣言しています。これは旧約聖書全体を貫いている思想の一つです。旧約聖書も新約聖書もまさに神の言葉が世界で唯一、いつまでも残り、いつまでも真実であり続けると宣言してやみません。
 しかし、一般に、永遠なるものは神の言葉ですと聞くと、何か拍子抜けしたような、何か頼りない、うすっぺらな、心細い思いが私たちの脳裏をよぎります。言葉じゃ、ちょっとどうかと、嘘もあれば、裏もある。単に言いっぱなしで、とても信用がおけない。だから実物でなければならない、実体のあるものが望ましい。見て、手で触れて確かめるものこそ信用に価すると感じてしまいます。
 しかし、このイザヤの時代は、今から2500年も前のことですが、もちろん今と同じく言葉よりも、武器の量が、兵士の数が、何千頭もの馬があるとか、金銀財宝に満ち、食糧と水がたっぷりとある、さらに堅固な要塞があってこそ確かだ、これこそが頼りになると思われていた時代です。この世界にいつまでも存続するものは、「神の言葉である」と宣言したのは、ほとんど異常なことです。これは私たち人間の知恵とか実感によって獲得したというより、神が私たち人間に働きかけて下って、しっかりと示された大切な教えであると言わざるを得ません。

 この時代に一体何があったのか、神は何故このような言葉をイザヤに告げて下さったのか、それをしばらく振り返ってみたいと思います。
 この預言者イザヤの属するイスラエルの共同体は、かつてダビデ、ソロモンという王たちによる栄華を極めた、広い領土を持つ国家でしたが、その後、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、さらに、北王国イスラエルはアッシリア帝国によって滅び、南王国ユダは紀元前586年にバビロニア帝国に滅ぼされて、こうしてこのイスラエルの人々は国土を完全に消失しました。王族、貴族、技術者、労働者、大勢の人々が奴隷として敵の首都バビロンに連れていかれました。戦いに敗れて国家が滅びるという悲惨な出来事は、歴史上無数に繰り返されてきたのであり、この国も繁栄の後に没落がやってきたわけです。
 しかし、このイスラエルの人々にとって、さらにつらいことは、自分たちは国を失っただけでなく、神から見捨てられたという絶望感の中にありました。あれほどアブラハム以来選ばれ、助けられ、守られてきた自分たちが、今や捨てられて、無残にも敵国の奴隷として屈辱の中におかれている、なぜ神は私たちを見捨てたのか、と悲惨な状況で問い続けたでしょう。その時に、活躍したのが、大勢の預言者たちであり、その中でもイザヤは当時の状況を正面から見据え、必ず解放され、故郷へ帰ることができるからと励まし、希望を語り、すなわち神の言葉を語り続けることをしました。聖書そのものも、このころ、いろいろあった巻物を整え、編纂して、自分たちの民族の歴史をしっかりと書き留める作業が進んだとも言われています。
 ある解説者によると、当時、バビロニア帝国は、この地中海東海岸一帯を征服し、非常に栄え、幾つもの民族を奴隷にして、国の建造物などの労役に酷使したということです。繁栄したこの国は、新年のお祭りを一年に二回行ったといわれますが、どういう暦になるのかはわかりませんが、とにかく、このお祭りでは、首都のバビロンの神殿に祭っている神々の前に、奴隷たちの神々を持ってこさせて安置させたと言われます。つまり、奴隷たちは皆、自分たちの神々をバビロニア帝国の神々の前にひざまずかせて忠誠を誓わせたということです。なるほど、支配者は、実に賢い仕方で、奴隷たちを支配下に置いたのです。ところがイスラエルの人々は、神を像に刻まない民族です。神の像がないのです。この時くらい、彼らは神を像に刻まないことの大切さを痛感した時はなかったことでしょう。
 しかし、まさに奢れる者も久しからず、です。ほぼ50年も経ったころ、ペルシアという国が東から台頭してきて、この繁栄を誇るバビロニア帝国を滅ぼしてしまいました。繋がれていた奴隷たちは解放され、故郷へ帰ることが赦されたのです。イスラエルの民族は、こうして再びカナンの地へと帰還し、廃墟となった町の再建に取り掛かりました。それはまたつらい再出発でもありました。
 ところで、自分たちが解放されて行く時に、イザヤはとてつもない光景を目にしたのです。筆舌に尽くしがたいと言う言葉がありますが、仰天するような光景でした。それは、バビロニア帝国の人々が拝んでいた神々の像です。ベルとかネボ、マルドゥークと呼ばれる神々でしたが、20メートルの高さがあったと言われます。この大きい神々の像が倒され、撤去させられるのです。敗北した国の神々は処分しろというわけです。しかし、バビロニアの人々は、それが出来ないのです。今までこれは神だ、これは神だと言って拝んできた、自分たちの神を今さら壊せと言われても出来ない、途方に暮れるわけです。
 そこで、どうしたかと言えば、コロの上に寝かせて、家畜たちに引かせて砂漠に向かって行進していったのです。砂漠の向こうにはただ滅びしか待っていないのです。死の行進です。その様子を見ながらイスラエルの人々は帰郷していきました。(イザヤ46)。
 草は枯れ、花はしぼむのです。どんな繁栄も、どんなに立派な神々を建立しても、人間世界の繁栄はいずれ、みな終わりが来る。しかも神を像に刻むことは、それは一時、繁栄のシンボルのように思われますが、地上に存在する物質を神とすることは出来ません。国も文化も、武器も兵隊も、金銀宝石でも、偉人であっても、いずれは土に還っていく日が来ると、この出来事は語っています。
 私たちの周りにある頼りとしているものが、いかにはかないか、それを神として祭ってはいけないかということを鮮やかに示している例であります。この世界を神とする者は、この世界と共に滅んでいくと教えられます。
 イスラエルの人々は、十戒の第2戒で、あなたはいかなる神の像も造ってはならないと、命ぜられていますが、なるほど、この砂漠世界では、神を像に刻んだ宗教は全部滅びて、今では、世界の有名な美術館に、発掘された一部が陳列されているのです。
 「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ
 このことをイザヤは、まざまざと神から教えられ、ここにしっかりと書き留めたわけです。そして、この精神はそのまま新約聖書に受け継がれました。受け継がれるというより、まさにこの教えの中で、新約聖書は誕生し、新しい世界を人類に提供することになりました。
 これを最も強く意識して書き留めたのが、ヨハネによる福音書の最初の部分です。本日、読んだ箇所です。皆さん、聖書を開いてください。163頁です。1章の1節に、こう書かれています。
 「初めに言があった。言は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった」。
まさに神の言葉が最初からあって、それ自身、神でありました。そして、14節で、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」と書かれています。
 いわば、イザヤを始めとして、旧約聖書全体は、神の言葉を語り、その神の言葉の普遍性、永続性を力説していますが、言葉は何かを示す、あるいは何を表現しようとして生まれた事の葉、ないしは記号ですから、言葉が形をとって、見えるようになって現れてきた、それは肉体をとって、体をもったというわけです。すなわち、見えない神が見える肉体をもって現れた、それがイエス・キリストであり、ここクリスマスの出来事があるとして良く読まれる箇所でもあります。
 そういうわけで、イザヤが「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と世界全体に向かって、しかも未来に向かって宣言した言葉は、はじめからあったものであり、しかも神と共にあり、神であったと言われる理由がよくわかります。神であり、人であるキリストが地上に到来された。それは言葉そのものであり、その言葉は具体的に肉をとって私たちの中に誕生したと声高に宣言されます。ここに、旧約聖書の2000年間の預言が完成した、成就したと、ヨハネは感動をもって書き留めました。
 そのキリストの生涯と教えや働きについてはこれからこの水曜礼拝でお話される先生たちが、きっと様々に説き明かしてくれるでしょう。本日は、旧約聖書のイザヤの預言が、このヨハネに受け継がれて、キリストにおいて実現したと宣言されているところを学びました。ここに私たちの大きな喜びがあり、まことの慰めがあります。この神の言葉、すなわち肉をとって地上を生き、教え、いずれ十字架上で死んで、復活された主イエス・キリストを心に留め、私たちの希望、慰めにしたいと願います。(了)