東北学院大学

法学部

国際司法裁判所(ICJ)の裁判官の任期が9年である理由(上)

2023年12月19日

 先日のオープンキャンパス(2023年12月9日五橋キャンパスにて開催)では、法学部の展示室にお越しいただいた高校生の方からご質問を頂戴しました。国際司法裁判所(ICJ)の裁判官の任期は、なぜ9年なのか?というものです。本ブログ記事がそのヒントになれば幸いです。

 ICJの設立条約である「国際司法裁判所規程」(ICJ規程)13条1項は、裁判官の任期を次のように定めています。

裁判所の裁判官は、9年の任期で選挙され、再選されることができる。但し、第1回の選挙で選挙された裁判官のうち、5人の裁判官の任期は3年の終に終了し、他の5人の裁判官の任期は6年の終に終了する。
 
 ICJの裁判官の任期が9年である直接の根拠は、この規定です。
 では、どのような経緯で9年になったのでしょうか?少しだけ歴史を振り返ってみましょう。ICJは国際連合(国連)の主要機関のひとつです。国連が存在する目的は、「国際の平和及び安全を維持すること」(1条1項)であり、そのために、侵略など国際平和・安全が損なわれる状況に対して集団で対応する仕組み(集団安全保障体制)を備え、さらに、国際紛争を平和的手段(=武力を用いることのない手段)によって解決することを目指します。つまり、国連の目的を一言で表すならば、国際社会の平和と安全を「力の支配」ではなく「法の支配」を通して維持しようとするもの、ということができるでしょう(※1)。
 ところで、国際紛争を平和的手段によって解決するといっても、二国間の外交交渉や、第三者が間に入って交渉する仲介・調停など、いくつかの方法があります。その中で、「国際法」によって解決しようとするものに、ICJによる司法的解決があります。司法的解決とは、裁判所の組織が明確に存在しており、そこで適用される裁判規範(国際法)も、裁判手続も、個別具体的な紛争に先立って決定されているというものです。
 そうした裁判所は、日本国内では当然かもしれませんが、国際社会にとっては必ずしもそうではありませんでした。国際社会では、「常設の」裁判所を作り上げるのに、苦労してきた歴史があるのです。1899年のハーグ平和会議で作られた「国際紛争平和的処理条約」では、常設仲裁裁判所(PCA)が設立されました。ここでいう「常設」とは、当時、常設の裁判所ができると良いなあ、という希望を込めたネーミングであって、実際には裁判官名簿があるだけの裁判所でした(※2) 。本当の意味の常設の裁判所は、第一次世界大戦が終了し、その講和条約の一部であった「国際連盟規約」16条に規定された「常設国際司法裁判所」(PCIJ)によって実現しています。
 しかし、国際連盟の力及ばず、第二次世界大戦が勃発すると、新たな平和維持機構が求められました。国際社会に「法の支配」をどう実現するのか、そのためには、新たな裁判所であるICJにどのような役割を与えるのか、問われたのです。
 この問題は、諸国にとって重大事でした。欧米諸国の多くは、ICJに対し、その前身であるPCIJと同様の基本構造を持たせようとします。それに対して、非欧米諸国の多くは、自国の利益が反映されないのではないかという危惧を抱きます。それもそのはず、国際連盟はそもそも植民地体制を肯定する仕組みを採用しておりましたし(委任統治制度)、当時の国際政治状況がいわゆる「文明国」(とされた西欧諸国)を中心とする構造を持っていたことを彷彿とさせるからです。つまり、非欧米諸国からすれば、伝統的な国際社会の在り方に対する抵抗があったわけです。
 それでも、国連憲章を議論したダンバートン・オークス会議では、欧米諸国の主張がとおり、ICJの基本構造はPCIJのそれを引き継ぐ形となりました(※3) 。裁判官の任期を9年としたことも(再任可能)、3年ごとに裁判官15名のうち5名を改選するという仕組みも、PCIJに倣って改めて採用されました。
 
(続く)
                                              
※1 牧田幸人「国際司法裁判所の『基本的組織原理』に関する考察(一)」『鹿児島大学法学論集』第13巻第2号(1978年)20頁。
※2 常設仲裁裁判所の裁判官名簿から、しばしば仲裁裁判所の裁判官が選ばれます。仲裁裁判所とは、特定の紛争の解決のために作られるいわば一時的な裁判所です。
※3 Department of States, The International Court of Justice SELECTED DOCUMENTS RELATING TO THE DRAFTING OF THE STATUTE, The U. S. Department Printing Office, Washington, 1946.